誰かのために生きてはいけない

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人間なんのために生きているのかと考える。究極は自分のためで良い。

他人のために生きることは映画や詩や小説で美化されがちですが、ちょっと僕の話を聞いて欲いただきたい。

僕の両親は結構な完璧主義者だった。両親とも日本を代表するような大手企業で働いていて、僕たちこどもにもそうなるようにのぞんで教育していたようでした。

良い高校に入って、良い大学に入って、大企業へ就職してその会社で勤め上げながら立派な家庭を築きなさい。今でこそ、共感できますが、こども時代にそれに腹から共感することはできていませんでした。

しかし、両親の期待ですから、いやいやながらも答えていこうとあまり反抗もせず頑張っていましたが、僕は途中で与えられたレールの上を走るのに耐えられなく鳴って心がポキっと折れてしまいました。そして心の病であるパニック障害にもなりました。

参考:パニック障害で死ぬほど苦しんだ僕が僕が海外で働く理由

それが僕にとっては大きなきっかけとなりました。病気を治しながら、本当の幸せってなんなんだろう。10代でしたが、考えるチャンスが与えられました。その経験は今の考え方の軸になっています。今では自分の考えたとおりに生きて、海外にまで活動の拠点をのばして、大好きな彼女もいて、ものすごくハッピーな日々を過ごしています。

つまるところ、人のために頑張ることは良いかもしれないけれど、それは自分の想いのベクトルがあってなければいけないんです。そうじゃないと、どこかで無理が生じて返って人に迷惑かけたり自分にとって大きなマイナスを生んでしまう結果になります。

  

死ぬときに、自分の意志でない道を歩んで本当に本望なのでしょうか?

  

僕は今でも障壁にぶつかることがありますが、自分が選んで歩いてきた道ならストレスになりません。そして、さらにコップに水を注ぐように幸せをどんどん自分の心のコップに注ぎます。そうするとどうなるか。幸せが溢れますよね。それは他人に分け与えられるんです。ですから、自分が幸せになると他人も幸せになります。

実は今のぼくの彼女がこれまた完璧主義者です。ベトナムの習慣に徹底的に合わせるようにうながしてきたり、ベトナム語も完璧に話せるように望んできます。ベトナム語は良いです。僕も周りの人とコミュニケーション取りたいですから楽しくがんばります。

しかし、ベトナムの文化・習慣ではどーしても受け入れられないものもあり、それはきっぱり受け入れられない、あるいは受け入れられるように少し努力するけど今は無理。と明言します。

それがもし、別れに繋がったとしても、(誤解がないように僕は彼女を本気で愛してますし、結婚も本気で考えています。)後悔はしないです。なぜなら僕には大事にしているひとつの考え方があるからです。

  

最善感。

  

縁や運命みたいな言葉と似ているのですが、人生のすべてにおける事象には意味があって全てが良いと考える思考です。平たく言うとポジティブシンキングってやつです。

どんなことにも始まりがあれば終わりがあったり、繁栄と衰退があります。セットです。歴史が証明しているようにこれは絶対です。大きな流れからは逃れることができません。でも生きなければなりません。

そして、幸せになるためには行動が必要です。落ち込むことは行動を阻害してしまいます。だからどんな結果が起こっても「それで良かった!」と思って生きるんです。

例えば、彼女と別れたとしても、それは新しい出会いにきっと繋がります。その出会いがより良い出会いかもしれません。いえ、動き続ければ必ず、ふたたび最高の出会いは訪れます。

だったら何を悲しむことはないです。今回はたまたま合わなかった事がわかってラッキーだった。と思って進むんです。

そんな考え方があるので、自分の幸せを前提に僕は生き続けます。それが彼女の幸せにつながるからです。

こう考えると結構どんな人生でも楽しくなります。今いる環境は最高の環境なんですから!

今日は「誰かのために生きないことが幸せ」という話でしたー!

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